さて、奈良県吉野山の私の愛情談議が続きますが、今回は吉野山の信仰の中心と言っていいと思います、金峰山寺のお話をしたいと思います。
私と金峰山寺の出会いは、実はある本からでした。
私は昔から、加門七海さんの著者の大ファンで殆どの作品を貯蔵しております。そして、『お祓い日和とその作法と実践』という本の中に金峰山寺のお守りである鏡が紹介されているのですが、このお守りが非常に欲しくなったのが吉野への興味の始まり・・・と言えると思います。
(こちらのお守りの方は、後からまた記事にしたいと思います)
まあ、美大の修士課程の取材、調査などと含めましても、日本の古の宗教観と修験道に興味を持ちまして、(自然崇拝と外来の仏教・儒教・道教などが融合したもの)吉野山に行ってみよう!と思ったのが元々のきっかけなんでございます。
そして、調べるうちになんとまあ、素晴らしい宗教観!
そして、なんとまあ、美しいというか素晴らしい立地条件!
もう、絶対に行く!
となったら、止まらないのがワタクシでございまして・・・。
そして、なんと、私が行こうと思っていた時期に
「秋の特別ご開帳、夜間拝観」なるものがあると言うのを金峰山寺のホームページから発見したのです。
見れば見るほど、おおおお!これは行かなくては!
ということで、私のワクワクは止まること知らずになったのです。
修験本宗 総本山 金峰山寺の歴史
吉野山を紹介するときに、やはり日本では『桜』というイメージが強いのではないかと思います。しかし、私、まだ桜の時期に行ってないのですよ。
なので、どのくらい吉野山の桜が綺麗なのか写真でしか知らないし、私自身、桜は写真ではなく自分の目で見なければ決してその美しさは伝わらないと思っているので、いずれ、是非にも桜の時期に行きたいと思っています。
ですが、元々は吉野山というのは桜よりも以前に山岳宗教のお山として始まったのです。もう、これは私が書くよりも、金峰山寺のホームページから引用しますね。
金峰山寺 http://www.kinpusen.or.jp/guide/index.html
大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。この姿を山桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されます。これが金峯山寺の開創と伝えられています。 明治7年(1874年)、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり復職神勤しますが、同19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っています。山号は国軸山、宇宙の中心の山という意味を号しています。平成16年「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして金峯山寺本堂蔵王堂及び仁王門がユネスコの世界文化遺産に登録されました。

そしてこの桜の木に金剛蔵王大権現を刻んだことから桜の木をより多く植樹されたのではないかと言われています。
当然ながら、現在でもその修験道においての僧侶、修験者(山伏)が山岳修行、山の中を駆け巡る「大峯奥駈修行」をはじめとする様々な修行を行っております。
最近では、女性も参加が可能なものもあるようなので、
(私はこの辺がちょっと古風というか、現世では女として生まれてしまったので、古の掟に従って、参加しないと決めております)
興味のある方は参加なさっても良いと思います。
青の秘仏・金剛蔵王大権現のご開帳夜間拝観

この金峰山寺の御本尊であります金剛蔵王大権現の像は3体ありまして、本堂である、蔵王堂に安置してあります。本来ですと、この扉は閉じられておりますので通常のお勤めでは拝観できません。
しかし、年に2回、春と秋に夜間拝観としてご開帳になります。
この3体のお姿なんですが、ネットで見ていたので、おお、見たこともないような厳しいお姿なのだなぁ・・・と思っていたのです。
まあ、説明は多分、引用の方が的確なのでホームページより引用させていただきます。
“金峯山寺にお祀りされる御本尊は、金剛蔵王大権現であります。今から1300有余年前、金峯山山上ヶ岳に役行者が一千日の修行に入り、感得された権現仏であります。権現とは権(仮り)に現われるという意味で、本地仏の釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)が権化されて、過去・現在・未来の三世にわたる衆生の救済を誓願して出現されました。また金剛蔵王とは、金剛界と胎蔵界を統べるという意味も表しています。
金峯山寺の本堂。秘仏本尊蔵王権現(約7m)三体のほか、多くの尊像を安置しています。
金峰山寺ホームページ http://www.kinpusen.or.jp/niomon/index.html
重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34メートル、四方36メートル。堂々とした威容の中に、優雅さがあり、たいへん勝れた建築という高い評価を得ています。
私がこの夜間拝観に参加したのは、2012年の秋の開催の時でした。
初めて湯川屋さんにお世話になった時で、専務さんから確か、15分くらい前においでなさいということを言われたましたので、初回も、そしてOZ旦那と行った時も、2回とも一番前でした(笑)。
結論から言いますとですね、
「素晴らしい」の一言です。
説法の中で「権現様はこの世の悪しきことを嘆き、また戒めるためにこのような怖いお姿になり現れました」というような事をお聞きしました。
初めは柔和な表情の釈迦如来が現れたそうですが、そのお姿ではこの乱世では人々に響かないと訴え、次に現われたのが千手観音でしたが、またしてもふさわしくないとし、次に現れた弥勒菩薩に、もっと強く悪を打ち払うような仏を、と望んだ所、地が割れ雷が轟き現れたのが「蔵王権現」という事だそうです。
確かに、纏っている衣が風に吹き上げられたようで、眉や目は釣り上り、牙をもち、髪は赤く逆立ち、真っ赤の炎を背負っている大きな仏像がロウソクの明かりだけで浮かび上がるお姿は言葉に尽くせぬ迫力があります。
みなさん、静かに本堂である蔵王堂の前に集まり、ちゃんと2列に整列して案内があるまで待ちます。そして、順番に靴を脱ぎ、権現様の前に前から詰めて座っていきます。
初めは静かに読経が流れます。そして、銅鑼の音が響き、次に法螺貝の音。そして徐々に普通の読経よりもやはり山岳信仰にふさわしい、山伏たちの気迫が満ちてくる読経に変わっていきます。いや、お経でここまで緊張するのは珍しい・・・・凄い、凄すぎる。と、思いながら自然と背筋が伸びてゆく。
「厳か」という言葉が多分、一番、ふさわしいのではないかと思います。
期間以外は朝の勤行に参加可能
夜間拝観、特別かご開帳は年2回だけです。ですが、毎日のように朝の勤行に参加できるので朝からさっぱりとしたい方、修験僧の気合いの入った読経は法螺貝と共に響き渡るのでこれもまた素晴らしいと思います。
まとめ
私自身はあまり気負わず、自然のままでどこにでも赴くことにしているのです。基本的に、「縁」というものを信じ、それがあればまた繋がっていくだろうし、その「縁」がなければないで、それまでのこと。そういつも思って何事も構えず、流れに沿うように生きていこうと思っています。
例えば、京都で神社仏閣廻りをして何十というお寺や神社を回ったとしても果たして名前や場所をきちんと覚えているでしょうか?
私は、結構、怪しいです(笑)。
まあ、何回か行っていて、何度も参拝するところは多分、ご縁があるのでしょうが、素通りというか、まあ、
「お邪魔しました〜」程度のところはかなりあるはずなんですよ、みなさんにもね。
ですから、私のアートに関すること、特に根本的な私の作品についてのリサーチでここ、蔵王堂を訪れ、そしてそれも3回も訪れることが出来たというのは権現様が私に「来ていいよ」という許しを与えてくださったのではないかと思っています(勝手にね)。
夜間拝観のときの読経は、本当に大きな音なので、具合が悪くなる方もいるかもしれませんが、大きな読経、法螺貝、そして銅鑼の音により全ての穢れが抜けていく感じがして、終わると何か落ちたような、そんな感じがします。
まあ、あれだけの迫力だったらそんじょそこらの雑魚は、境内に入っただけでさ〜っと逃げ出すでしょうよ。その前に多分、吉野駅に着いた時点で「場違い」という事でお引き取りいただいているのもあるんじゃないですかね。
ちなみにウチのOZ旦那の感想は、読経のお勤めの時から、コソコソと私の小耳に、
“Fxxking awesome! My goodness me! ” を連発してました。
ふふふふ、だしょ〜、すごいんだから!
実はですね、
前回、2018年の10月に伺ったときなんですが、
朝に金峰山寺のお坊さんと勤行参加と言うことで、足を捻挫しておりまして、正座ができないので椅子に座らせて頂くことをちょっとお話をさせていただいたのですが、もう、なんでしょう・・・あれが「萌」というものなのでしょうか。
お坊さんに「萌える」という経験が全くなかったのですが、なぜか修験者(山伏)の衣装や法螺貝、そして金峰山寺のお坊さんの風情やその佇まいにどうしても何か違う感覚が刺激されるのです。こう、ワクワクしてくる感じ。
ツレの友人も、
「前世でなんかあったんじゃないの?」とのこと。
ええ、調べてみたいような、みたくないような。まあ、前世なんかどうでもいいんですけどね、こうやってご縁が結べたのですから。
私が男だったら、絶対に修験道の修行に参加しているはず!
という事でですね、
私の家には金峰山寺からいただいたお札があります。

ネットなどで調べてみると「1年ごとにお札をお返しし、取り変える」なんて書いてあったりするので、直接お寺の方に伺ったら、「別に汚れないければ、ずっと持っていて構いませんよ。時間ができた時においでになって、変えなければ、と思う時に変えて頂ければ」とのことでした。
そこでお札掛けをアマゾンから買いまして、汚れないように飾っております。
はい、これでしっかりと「ご縁」がある気になっております。
では、権現様、また、いつの日かお邪魔いたします。
(今度は桜を見たいなぁ・・・)