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オーストラリアの建国記念日(Australia Day)は黒い歴史の侵略記念日

閲覧注意:きちんと事実を伝えるため、ここにあげた写真閲覧については不快を与える場合もあるので、ご注意ください。

豪州では1月26日は、オーストラリア・デイ、建国記念日です。まあ、白人の何も考えない人種差別者はこぞって、パーティーやらなんやらをオーストラリアの国旗を掲げてお祝いをする日でもあります。

でも、この白人たちが200年以上前に何をしたのか・・・それを知ったら、お祝いなんてできないし、ましてや侵略してきたイギリスの国旗が入ったオーストラリアの国旗を誇らしげに掲げるなんてことも、普通の感覚だったできないはず。

そして、この日になると必ず、国旗を変えようという意見も結構出ていますね。

私も、大学のアボリジニーアートの選択を取るまで知らなかった、オーストラリアの黒い歴史・・・。そこで、何も知らない方のために、今日はじっくりと1月26日の、それに繋がる歴史を書いてみたいと思います。

オーストラリア大陸発見

最初にヨーロッパ人がオーストラリアに着陸したのは1606年にオランダのナビゲーター、ウィレム・ジャンシューンでした。27人の他のオランダの航海士は17世紀に西部と南部の海岸を探索し、ニューオランダと称します。

その後、ヨーロッパの探検家であるイギリス人のジェームス・クックがオーストラリアを再度発見し、1770年、既存の住民と交渉することなくオーストラリアの東海岸を英国領であると勝手に主張しています。

しかし、この航海のスポンサーの1人であるロイヤルソサエティの首席は、出発前にこう書いています。

クックが発見する可能性のある土地の人々は当然のことながら、彼らが住む地域の法的保有者である。欧州連合のいかなる国も、自国のいかなる部分も占有する権利を有しておらず、先住民が自発的に同意しない限り、その国を制圧する権利はありません。そのような人々を征服することなど、決してその権利を与えることはできません。先住民が決して侵略者になることができないからです。

にも関わらず、クックは、ニューサウスウェールズ州のボタニー湾(現在シドニーにある)で植民地化に有利になる準備を携えて上陸することになります。

初めての植民地

ニューサウスウェールズ州の英国植民地は、1788年1月にArthur Phillip大尉の指揮のもと、11隻の第1艦隊が到着して設立された。それは778人の囚人(女性192人、男性586人)が Botany Bayに到着し、その数日後、艦隊はより適したPort Jacksonに移り、1788年1月26日にSydney Coveで植民地が正式に成立した。そしてこの日が現在のでオーストラリア国民の日(建国記念日)、オーストラリアデーになりました。

この時の囚人の罪の種類

当時、ヨーロッパでは(日本でもそうだけど)人殺しやひどい犯罪の場合は、有無を言わさずに極刑でした。つまり、斬首や絞首などの死刑になるわけです。そこで、どうしようもないのが、引ったくりだとかちょっとした盗みなどの軽罪です。ですから、そういった問題児たちを島流しにしたのがオーストラリアと言われています。ここに流された人たちは、みんな、引ったくりや、パンを盗んだとかそんな感じのものでした。

そしてこの後から、白人入植者による先住民のアボリジニーの虐殺が始まります。

 参照:Australian History: Wikipedia

アボリジニーへの迫害と大虐殺

まずは、写真を見ていただこう・・・。

photo by New Matilda.com, Aboriginal affairs

William Oswald Hodgkinson’s painting Bulla, Queensland, 1861 shows armed fighting between the expedition and Aboriginal people.(Supplied: National Library of Australia)
Mounted police engaging Indigenous Australians during the Slaughterhouse Creek Massacre of 1838

イギリスの植民地化を進めるため、先住民であるアボリジニーの土地を取り上げ、大量虐殺が各地で始まります。彼らには当然のことながら、銃などないですから、槍で戦ったと言います。

ヨーロッパの入植者が1788年に到着した後、イギリスからの入植者が持ち込んだ病気によって、1000人の原住民が病死しました。クックが最初にオースラリアを発見した時には、推定で約25万人以上のアボリジニーがいたと言います。そして、大虐殺は1920年に終わり、最終的に残ったアボリジニーは6万人を超えなかったと資料に残っています。計算してみると、19万人が白人に虐殺されたことになりますね。

参照:Cultural Survival 

アボリジニーの多量虐殺マップ

最近になって、アボリジニーが虐殺された場所の地図が作られました。この地図は、アボリジニーの血を引くオーストラリアのアーティストで、ジュディー・ワトソンという人が製作したものです。彼女の作品は、私も好きで、大学時代はよくリサーチさせてもらいました。

この地図でわかるように、ニューサウスウェルズ州とクイーンズランド州、ノーザンテリトリー州で多く起きていますね。

A multimedia project led by the the Indigenous Australian artist Judy Watson is among the initiatives seeking to map the numerous sites where colonists massacred Aboriginal people.Source: the names of places. Artistic / research / technical team: Judy Watson, Greg Hooper, Freja Carmichael, Indy Medeiros, Jonathan Richards, Angus Hooper, Jarrard Lee.

キリスト教の押し付けと子供の誘拐

Residents of the Carrolup mission gathered for a photo (Supplied: Dumbartung Aboriginal Corporation)

オーストラリア政府は1838年に、初めてオーストラリア国家は、アボリジニーの大虐殺を正式に認め、「加害者」である白人を告発しました。裁判所は、この白人男性を有罪とし、数人を絞首刑に処する判決を下しました。多く白人が抗議して、決定を否定する手紙を送りましたが、判決を覆すことはできませんでした。しかし、この事件によって、植民者がアボリジニーの人々に対しての態度の変化が現れることになります。

クラウン政府は、アボリジニの文明化を目的とした一連の改革を思いつきました。1838年以降、クラウン政府は、アボリジニー委員会を設立し、アボリジニーの各グループを特定の地理的エリアに割り当て、行き来のできる許可を出しました。委員会は、仕事の割り当てや住居の手配とともに、結婚を承認しました。政府はイギリスで訓練を受けた宣教師を各グループに割り当てて、アボリジニーをクリスチャン化しました。同様に、植民地政府は、原則として原住民の子供たちを親から引き離し、学校に通って英語を学び、もし、アボリジニー語を話す場合には厳しい刑罰を科しました。

子供たちは服を着け、食べ、生きて、白い子供のように働かなければならず、それはほとんど肉体的処罰のだったと言えるでしょう。このような閉鎖的な状況の中、白人たちのアボリジニーの子供たちに対する身体的および性的虐待が横行していましたが、数十年にわたってほとんど気づかず、事件として扱われませんでした。
1920年までに、これらの学校に強制された子供たちは、「盗まれた世代」として知られるようになります。

参照:abc news

現代でも続く差別

現代でも、オーストラリアではアボリジニーに対する迫害や差別は続いています。欧米式の教育法は基本的にアボリジニーの生活様式には合いませんし、文化的も全く違います。ですからこのアンバランスをどのように埋めていくのかが大きな課題なのですが、それでも欧米の様式、例えば飲酒、麻薬などがアボリジニーの社会にも入り、特にアルコールは大きく影響し、アルコール中毒に悩むアボリジニーの人たちも多いです。そして、それによる犯罪の増加や人種差別による不当な扱いに対する摩擦など、様々です。

数年前には、ノーザンテリトリーで酒に酔った中年のアボリジニーの男性を保護?いや、あれは逮捕と同等の扱いだと思いますけど、パトカーの荷台に放り込み、そのまま放置。NTは平均でも夏は四十五度を超える暑さになりますから、冷房のない締め切った荷台に禁固されたアボリジニの男性は、熱中症で死亡しました。NTの警察では、これは事故としています。このアボリジニーの男性は酒に酔って暴れていたため、安全のために、落ち着くまで放置しただけで、故意の虐待ではなかったとのこと・・・・・。

photo from caradvice.com.au

ふん、んなこと信じられるかい!その前にもお前たち殴り殺した奴がいただろうが!

こんな狭い中に、何時間も真夏のNTで閉じ込めて、悪意がなかったなんて、誰が信じるんじゃ!

まとめ

ここでは、さらっと大体の歴史しか載せていませんが、当然のことながら、アボリジニーの人たちには選挙権がありませんでした。1962年になって、初めて彼らの選挙権が認められ、1965年にクイーンズランド州が最後の選挙権を認める州となりました。

今日のニュースでは、国民がこのオーストラリア・デイの日にちを変えようという議論がされているようです。オーストラリアが植民地となった日ではなく、アボリジニーたちも一緒に祝えるように、違う日にしょうという動きがあるようです。まあねぇ・・・建国記念日自体が好きじゃないから、どうでもいいんだけど。この、国民性や愛国心を変に煽るようなこと、あんまり好きじゃないんですわぁ。

シドニーの美大に入学して2年生の時にアボリジニーアートを選択科目としてとりました。その時に講義をしてくれた先生はアボリジニーで、当然ながらアボリジニーのアートについての記号や意味を中心にしていましたが、初めての講義の時にアボリジニーの歴史を学びました。その時に、どうやって迫害されて来たのか、何があったのかを見た時に自分がオーストラリアに移民してこんな大切な歴史を知らなかったのか、なんと無知で傲慢なことか!と改めて恥じ入ると共に、あまりにも酷い仕打ちに対して怒りを覚えました。教室のあちこちから、すすり泣きも聞えたり、私も涙が出てしまいました。

「知らないと言うことが罪なんだなぁ」とその時に強く感じました。

初めは25万人もいたアボリジニーを19万人も虐殺した。これって、ものすごい数ですし、知らない、関係ないでは済まない数ですよね。それなのに、この侵略した日にオーストラリアの旗を掲げて、どんちゃん騒ぎですか?どういう神経をしているのか・・・・。って思いませんか?

誰が、どこから来ようと、誰がどの文化を継承しようと、オーストラリアは多民族国家であり、それぞれの国の伝承を尊重するべきですから、オーストラリアという国自体の独立性を感じないという気持ちもあります。

この事実を知ってもなお、あなたはオーストラリアの国旗を着て、ビール飲んで、バーベキューやって、Happy Australia Dayと言えますか??

ん???

私の良心ある豪州友人達はこの日を

Invasion Day (侵略記念日)と言います。

 

 

Sakura
2000年からオーストラリア在住。シドニー某大学の修士課程卒業。『海外在住引きこもり主婦』のアーティスト兼ブロガー。専門は銅版画ですが、油絵もやります。海外生活事情や文化などを中心に書いてます。
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